Making of the World
作品世界の創作に影響を与えたものたち

アメリカ開拓史の意外な事実

「入植者 VS 先住民」なんて単純な構造ではなかった

半世紀ほど前の西部劇では、先住民(アメリカ・インディアン)は「開拓を邪魔する狡猾な敵」として描かれてきました。その後人々(白人)の人権意識が向上し、「ネイティブ・アメリカン」という呼称が生まれたとともに、今度は彼らは「白人に支配され搾取された被害者」として認識されるようになりました。
この認識の変化はとても大切なことですし、事実でもあります。しかし専らこの認識だけでは、白人と先住民との関係の歴史を、正しく理解できない難点があります。

入植以前からあった分断、入植者を味方につけた戦争

ヨーロッパの入植以前から、先住民たちには部族同士による対立が存在していました。15世紀末のスペインの南北アメリカへの侵略の際も、攻撃する部族に対してはその敵対部族を味方につけ、彼らの力を借りて攻略していたのです。
17世紀~18世紀、フランスやイギリスといったヨーロッパの植民勢力は互いに戦い、自分たちと同盟し交易する先住民たちをその戦いに引き入れました。先住民たちも、自分たちの古くからの宿敵を追い出すために、ヨーロッパ人と手を組んで戦うことを厭いませんでした。また彼らが戦闘から戦利品を持ち帰ることに対して、ヨーロッパ人は経済的動機を付け加えました。その結果、戦いは増加し、恒常化し、先住民たちはますます報復のための殺戮を行うようになってしまったのです。

先住民とヨーロッパ人との歴史 概略年表

15世紀 1492年 コロンブスがカリブ諸島に上陸
先住民への虐待と伝染病の蔓延により急激に人口が減少
1497年 イギリス(ヘンリ7世)の派遣したイタリア人のカボットがカナダの「ニューファンドランド島」に到着し、先住民と接触
16世紀 1533年 スペインの軍人、ピサロ兄弟がインカ帝国を征服
1534年 フランス人ジャック・カルティエがセントローレンス川流域で先住民と遭遇。翌年ケベックとモントリオールでイロコイのグループと接触、交易を始める
17世紀 1609年 フランス人サミュエル・ド・シャンプラン、北東部を探検。ヒューロン族、アルゴンキン諸族、イロコイ5部族連合に対抗するためフランスと同盟を結ぶ
1635年 イロコイ連合、ヨーロッパ人の毛皮取引の競争からヒューロン族の排除を狙う。また消耗した人口を増やすため他部族から子どもや女性を強制的に連れ去る
1670年 イギリスの銃で武装した先住民が武器を持たない先住民を襲い、南東部の他地域へ追い払う
1670年代 イロコイ連合、イギリスと正式な関係を結ぶ
18世紀 1701年 イロコイ連合、ヨーロッパ戦争に対し中立を制約。英仏両方と平和を堅持する
1701年~
1713年
スペイン継承戦争が北アメリカで展開され、イギリス・フランス・スペインの植民地争奪戦争に東部の先住民が巻き込まれる
1756年~
1763年
フレンチ・インディアン戦争(七年戦争)勃発。英仏によるオハイオ川流域の覇権争いで、東部の先住民(特に北西部、オハイオ川流域五大湖地域)で双方の陣営に巻き込まれる

19世紀以降の先住民の状況について

この頃になると、先住民の強制移住、ドーズ法(インディアン土地割当法)、寄宿学校など、彼らは伝統の文化や土地を奪われるようになっていきます。

(白人の)アメリカ人は、先住民を「文明化」する政策を行い、アメリカ流の経済、政治、男女の役割概念を植え付けました。それは狩猟をやめ、農耕を生業とし、綿花のような換金作物を作ることを意味していました。狩猟をやめれば広い狩場が要らなくなるので、それを政府が買い取り、入植者に払い下げようという目論見だったのです。
理不尽な文化の押し付けや、移住先の保留地での監督官の横暴な態度に対し、先住民は怒りを募らせ、度々反乱を起こしました。今日の「インディアンVS白人」という構図は、恐らくこの頃から抱かれるようになったのでしょう。

筆者はこれまで、映画「アバター」のような、美しく無欲な先住民と、強欲で狡猾な入植者という単純構造だけで北米の歴史を捉えていました。けれど実際のところは先住民も同じ人間であり、諸部族間の対立や分断が、入植者の支配を容易にした背景がありました。私たちは先住民のことを気の毒に思うあまり、美化しすぎているところがあるのかもしれません。

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参考文献

  • グレッグ・オブライエン著(2010)『アメリカ・インディアンの歴史』阿部珠理訳, 東洋書林
  • ”カナダ - 世界史の窓”〈https://www.y-history.net/appendix/wh1002-049_1.html〉2019年7月8日アクセス