The Story
小説「カハラディア」の本編を一部公開
序章 幻の種族
男たちの荒々しく叫ぶ声が聞こえて、ジェラールは目を覚ました。
船出してから10日間、度重なる大波との格闘で、疲れが溜まって眠ってしまったらしい。
荷物を詰めた木箱を背もたれにし、腕を組んだ姿勢で寝ていたようだ。そのせいで体の節々が痛い。
甲板にいる男たちは舵を取るのに忙しい。彼らは疲れ知らずなのか、ずっと動き続けている。
「ロゼット様、お加減はいかがでしょうか?」
従者が膝をついてジェラールの傍に寄った。実はジェラールは船が苦手だった。その上この波のせいで四六時中吐き気に苛まれている。
今は比較的穏やかなようだが、まだ頭がぐらっとする。
「はぁ……ははは、私は船乗りには向いていないようだね。未知の世界への冒険がこんなに大変だったとは思ってもみなかったよ」
苦笑いが出た。だが従者は心配そうに眉をひそめている。
「あと2日です。航海図が間違っていなければ、あと2日でディアナ湾に到達し、カハラディアに上陸できます」
カハラディア……。その地名が、いよいよジェラールにとって現実味を帯びてきた。今までなんとなく夢の世界のような感覚だったが、とうとうその場所に自分たちは降り立とうとしているのだ。
この未開の大地について、彼はさまざまな噂を聞いてきた。化け物のようにでかい獣が闊歩し、ジェラールが暮らしていたユーリタニアではとっくの昔に絶滅したオオカミが潜み、そして――もはや古代の幻の人類といわれる「鳥獣人」が暮らしているという。その名の通り鳥や獣のような身体的特徴を持ち、文明を持たず、原始的な狩猟採集をして暮らす種族だと云われている。
2,000年ほど前まで世界各地にいたそうだが、今ではその生きた姿を見る者は殆どいない。彼らの存在を確かめられるのは残された骨や爪、羽毛ぐらいだが、珍しいため世界中で高値で取引され、偽物も少なくない。
1世紀ほど前にジェラールたちの敵国、エスニア帝国がカハラディアを初めて訪れ、「鳥獣人」の生き残りを発見したという。ジェラールたちの任務は、まだエスニア人たちが開拓していない北部へ向かい、新たな資源と開拓地を見つけ、幻の人類の生態を調査することだ。
ジェラールの手元には、かつて南の大陸からやってきた商人がもたらしたという「獣人」の頭蓋骨がある。これをくれたのは彼の友人なのだが、当初ジェラールは偽物だろうと思っていた。こういうのは大抵、少し古い人間の頭蓋骨に適当に犬かヒョウの牙をくっつけ、それらしくしてあるだけだからだ。ところがその頭蓋骨を詳細に調べてみたところ、牙の生え方や長さにいかにも取り付けたような不自然さがなかった。さらに牙を引き抜いてみると、歯根や歯槽骨の形状がぴたりと一致していたため、これは人為的につけられたものではないと判明した。
彼が今度のカハラディア開拓に抜擢されたのは、彼の博物学へのあくなき探究心と、聖職者としての深い信仰心を買われたからだった。祖国アルゴメア王国女王から命を受け、カハラディアの自然環境とそこの原住民について詳細な調査を行い、もし幻の人類との意思疎通が可能であれば、神の教えを布教するのが彼の任務だ。
万が一に備え、護衛は100人つけている。彼にはいささか多すぎる気がしなくもないが、アルゴメア王国の未来がかかっているのだろう。それ以外にも彼の身の回りの世話をする従者が20人ほどいる。ほかにも人や荷物を運ぶための馬が70頭用意されていた。船は3隻用意され、ジェラールと従者、護衛数十人がこの船に乗り、残りの護衛と馬たちは別の船に乗っている。
雲の切れ間に日の光が差し込んできた。それがジェラールには一筋の希望のように思えた。これまでの航海で、彼はろくに日の光を見てこなかったからだ。
突然男たちが騒ぎ始めた。何か見慣れぬものを目撃するような声である。体調が優れないながらも、ジェラールは男たちの視線の先にあるものへの好奇心には逆らえなかった。
少しふらふらしながら、彼は船べりに近づいた。
海面から何か黒い大きな塊がせり上がってきている。それが霧を噴き出したかと思うと、大きな細長い板のようなものが水面から顔を出し、やがて巨大な魚の尾ひれのようなものが現れた。
あれがクジラと呼ばれる巨大生物なのだろうか。ジェラールは興奮し鼓動が高まるのを感じたが、同時に手に何も持っていなかったことを悔やんだ。未知の世界へ行くのだから、羊皮紙と鉛筆は常に持っていようと心掛けていた。しかし不安定な気候に苛まれ、貴重な紙を塩水なんぞに晒して傷ませてはならないと、ずっと箱の中にしまったままにしていたのだ。
クジラはあっけなく彼らの前から姿を消し、男たちはすぐに持ち場に戻っていった。
その後ずっと波は穏やかで、ジェラールはようやく苦しい船酔いから解放された。遠くに陸が見えるようになると、海辺の生き物もより多く見られるようになった。彼は船の上を舞うセグロカモメをスケッチしたり、黒と白の斑を持つ背びれのピンと立ったクジラの群れを観察したりして過ごし、海の生き物の営みを間近に知ることができた。
やがてディアナ湾に到達し、上陸がいよいよ迫ってきたときのことである。ジェラールは降りる直前まで生物観察を続けていようと思って、船べりから身を乗り出して海面を眺めていた。
ふいに視線を下に向けたとき、水面付近で白っぽい物体が泳いでいるのが目に入った。
体型や大きさから最初イルカかと思ったが、やけに胸びれが長すぎるように見える。まるで上半身は人間のような……。
「え?」
思わず小さく声が漏れた。その細長い胸びれは真ん中から直角に曲がり、先端に何が棒切れのようなものが握られているのが見えた。そしてそれが水面から顔を出した。
「…………!!」
彼はその瞬間体が凍り付いた。それはすぐに海の中に潜ってしまったが、彼はそれが、人間のような顔をしていたことをはっきりとこの目で捉えた。それとは確かに目が合ったし、それで相手はすぐに潜ってしまったのだろう。
彼はしばらく身動きが取れなかった。見間違いでなければ、今見たのは間違いなく人魚だ。上半身はどう見ても人間だったし、下半身は魚のように流線型で、先端には魚やイルカのような尾ひれがついていた。
…………まさかあれが、幻の人類「鳥獣人」だというのか。彼は専ら陸上にいるものかと思っていたが、海にもいたようである。
海岸付近に差し掛かると、船乗りと護衛たちが下りる準備を始めた。此処はまだ誰も上陸したことがないため、桟橋も何もないらしい。ジェラールや大事な荷物が水浸しになってしまってはいけないと、彼らが先に上陸して、その場しのぎの簡単な桟橋を造るのだとか。
海岸は灰色をしており、周囲をぐるりと険しい山々が囲んでいる。だが辺りは霧に覆われ、遠くの景色はぼんやりとしか見えない。ジェラールは、男たちが水浸しになりながら桟橋を建設している間も、船べりに張り付いて周囲の環境を観察し続けた。
ようやくだ、とジェラールは胸が高鳴った。ついに未知の大地、カハラディアに着いたのだ。この自然環境といい、遭遇した生物といい、やはり明らかにユーリタニアとは違う。
頭の片隅ではあの人魚のことがずっと気になっていた。彼らは専ら海でしか生活しないのか、単独行動なのか集団行動なのか、武器や道具は何を使っているのか、どんな文化を持っているのか、様々な疑問が頭に浮かんだ。
陸にいる「鳥獣人」たちはどんな姿をしているのだろう。彼は、あの頭蓋骨の標本のような鋭い牙を持つ種族と直接対峙するのだろうか。彼らには神の教えを理解できるほど知性があるのだろうか。
「……ロゼット様? ロゼット様、ロゼット様!!」
従者がジェラールの肩を叩いて呼びかけていたようだ。物思いにふけっていて気付くのが遅くなってしまった。どうやら桟橋は完成し、降りる支度をしなければならないようである。
従者たちに支えられながら、彼はゆっくりと渡し板に足を下ろし、桟橋に降り立った。人が歩くたびにギイ、ギイと音がする。今にも桟橋の板が割れてしまいそうだ。
海岸は砂利になっており、歩くたびにザクザクと音が鳴る。少し離れたところでカモメたちが魚をついばんでいる。あの辺りであの人魚型の「獣人」が休んでいることはないのだろうかと、ジェラールは気になってしまった。
初夏だというのに冷たい潮風が顔に打ち付けてくる。彼は羽織っていたコートをぎゅっと掴んだ。
崖を上り、砂利道から草地に変わったとき、ジェラールはふと後ろを振り返った。3隻の船はずっと岸辺に佇んでいる。それらを見て、彼は後ろ髪を引かれる気がした。
草地を歩き続けると、背の高い針葉樹が生い茂る森の中に入った。マツやトウヒの木立を歩くと、自分たち人間がとても小さく感じる。ユーリタニアではもっと背の低い広葉樹が多かったのだ。ただでさえ曇り空で薄暗いところを、木々の陰で森はもっと暗い。いつどこで何が出てきてもおかしくない気がする。
どこかで小鳥たちがさえずるのが聞こえた。ユーリタニアでも馴染み深いその鳴き声を聞いて、彼は少しほっとした。何もかも全てがユーリタニアと違うわけではなさそうだ。
第1章 光る眼
森を歩き続け、開けたところに出たころには空は晴れ、日が傾いていた。西の方角では空が鮮やかなオレンジ色に染まっている。今夜は此処で寝泊まりすることになるだろう。従者や護衛たちは馬に括り付けられた荷を地面に下ろした。
ヤギの皮でできたテントを張り、焚き火を起こして、彼らは夕食の支度を始めた。とはいっても、干し肉や干し果物、パンなどといったすぐに食べられる保存食を用意し、乾燥させた茶葉でハーブティーを淹れる程度のものである。ジェラールは従者からコップに注がれた茶を受け取ると、手にその温かみを感じて気が安らいだ。
食事を終えたときには、既に日は落ち、辺りは暗くなっていた。夜の虫やカエルたちの静かな合唱が響き渡っている。夜空を見上げると、三日月と、満天の星空が広がっていた。ユーリタニアにいた時よりも、星々がよく見える気がする。夜空を横断するように、天の川が流れていた。
夜空に見とれていた時、遠くで何かが鳴くような声が聞こえた。
「ウオォォォォ――――ン……ウオォォォ――――ン……」
犬の遠吠えによく似ているが、それよりは野太く、声も長い。
ジェラールは不思議とその声に惹かれた。美しくもあり、どこか哀愁も帯びている。彼はその声に導かれるように聞き入っていた。だがすぐに、彼は誰かに上着の裾を引っ張られるのを感じた。
「どうかされましたか……?」
若い従者が心配そうにジェラールを見つめている。
「近くにオオカミが潜んでいるかもしれません。さあ、早くお休みになってください」
そう言われてふとジェラールは我に返った。何人かの護衛たちが、かがり火の中槍やマスケット銃を持ち、警戒態勢に入っている。彼は従者に半ば強引にテントに押し込まれた。
テントの中に入ってしまうと、殆ど何も見えない。隙間から月明かりや焚き火の明かりがわずかに入るだけだった。ジェラールは正直、外でもっと星空や不思議な遠吠えに酔いしれていたかった。だが何も見られなくなってしまった今は、寝る以外することがない。渋々毛皮の寝袋に入り、休むことにした。外では焚き火のパチ、パチと爆ぜる音、護衛たちが地面をザク、ザクと踏みしめる音が聞こえる。それに聞き入っているうちに、だんだんと意識が遠のいていった。
ジェラールは深い森の中に一人で佇んでいた。木々は風に煽られ、騒がしく梢を鳴らしている。背後で獣の唸り声が聞こえて、はっと振り返る。
気配もなく木の棍棒を持った骸骨人間たちが現れ、ぐるっとジェラールを取り囲んだ。彼らは鋭い牙を生やし、尻からイヌやネコのような細長い尾骨が伸びている。馴れないネコのようにシャーッと威嚇し、槍を構えてジェラールににじり寄ってくる。恐怖でパニックに陥った彼は、1体の骸骨に無意識に体当たりした。骸骨はあっけなく崩れ、骨が地面に散乱する。その途端残りの骸骨たちが一斉に襲い掛かり、ジェラールは一目散に逃げ出した。どこへ行けばよいのかもわからず走り続けると、森が開けた。だがほっとしたのも束の間、開けた先にあるのは崖だった。その先には荒れ狂う海だけである。波が崖の岩肌に激しく打ち付けている。獰猛な骸骨獣人たちがすぐ後ろまで迫ってきた。
ジェラールはじりじりと崖に追い詰められていく。そして足を踏み外し、崖から転落して海に投げ出された。視界が細かい泡で覆われ、何も見えない。息は苦しくなり、服が水を含んで重くなり、体の自由を奪う。
海の底から不気味な影が忍び寄ってくる。黒光りした鱗を持つ人魚たちが、鋭い爪と牙を剥き、ジェラールに群がってきた。一体が彼の喉元に食らいつこうとしたとき、突然視界が真っ暗になった……。
気が付くと、ジェラールはテントの中で仰向けになっていた。どうやら今のは夢だったようだ。夜が明けているのか、テントの中は明るくなっていた。
彼はほっとため息をつき、今のが現実でなかったことに安堵した。しかし、骸骨ではないとはいえ、あれに血肉をまとった生き物がこの大地にいるのだろう。しかも、人魚型の「獣人」については昨日実際に目撃している。だが夢で見た行動が実際のものと同じとは限らない。彼は胸の中でそう言い聞かせて落ち着こうとした。
テントから顔を出すと、朝の霧が立ちこめ、昨晩と同じように従者や護衛たちが動き回っていた。テントのいくつかは既に畳まれ、荷物がまとめられていた。
「おはようございます、ロゼット様。よくお休みになれましたか?」
昨晩とは別の、もう少し年上の従者が、柔和な笑みを浮かべて挨拶する。
「どうかな……夕べ化け物に襲われる夢を見てしまったんだ。食い殺される寸でのところで目が覚めたんだが……」
悪夢による疲れが出ているのだろうか。正直ジェラールははまだ眠かった。
「慣れないことや不安があると、それが夢として表れることがありますからね。大丈夫ですよ、我々が貴方様をお守りいたします」
そのささやかな一言がジェラールにはとても心強かった。思わず笑みがこぼれる。
「ありがとう、頼りにしてるよ。ところで、夕べは大丈夫だったかい?」
「はい?」
従者は昨晩のことについて何も知らぬかのようにきょとんとしている。
「夕べオオカミか何かの遠吠えが聞こえて、あの彼が私にテントに入れって言ったんだ」
ジェラールは昨晩声をかけた従者の方を指さした。彼は今、せわしなく荷物を馬につないでいる。
「護衛たちも何か警戒していた様子だったし、どうだったのかなって」
「ああ、そのことですか」
従者はあっけらかんとして答えた。
「何もありませんでしたよ。あれからしばらく周りの様子を伺っていましたが、特に何かが接近してくる気配もありませんでした。万が一の時に備えて焚き火が消えてしまわないようにして、それから休みました。御覧の通り、皆元気です」
顔を洗うため川辺に行くと、少し離れたところでハクチョウの親子が泳いでいた。2羽の親鳥と灰色の5羽の雛鳥がいる。ほかにも何羽かカモたちが泳いでいた。
足元では1匹のカエルが草の陰に隠れている。つい捕まえたい衝動に駆られるが、カエルを触った手で顔を洗うのは良くない気がした。
顔を洗って軽く口をすすぎ、身支度を済ませると、昨晩と同じように保存食とお茶で簡単な朝食を取った。
その後もジェラールは従者や護衛たちに囲まれながら、内陸の方へ進んでいった。特に目的地があるわけではないが、この地形について知るため、彼は随所でスケッチをしたり、発見したことをメモしたりしていった。従者たちにもこれまで通ってきた道を地図として記録してもらった。
しかし、時には一人になりたいと思うときもあった。遠くで見慣れぬ生き物を目にしたとき、彼が一行から離れようとすると必ず護衛も数人ついてくる。彼らが無神経に武器や甲冑をガシャガシャ鳴らすせいで、せっかく間近で観察したいと思っても逃げられてしまうのだ。ジェラールは彼らに、見失わない距離にいるときは自分が一人になっても付き添わないように頼んだ。だが彼らもジェラールを守らなければならない責任感からか、なかなか納得してくれなかった。
しかし、やがてそうはいかない事態になってしまった。
ある夜のことである。ジェラールがテントの中で横になっていると、遠くでまた遠吠えのような声が聞こえた。だがその声は、最初の夜に聞いた美しくて物悲しい音色ではない。もっと耳障りで、群れを成しており、高い声や低い声が入り交ざっている。まるでジェラールたちを威嚇するような響きだった。外でつながれている馬たちが不安そうにいななくのが聞こえ、彼は鼓動が高まるのを感じた。
「ロゼット様、大丈夫ですか?」
テントの外で護衛が声をかけた。金属が擦れ合う音がする。
「あれは何かな? あれもオオカミの遠吠えなのか?」
彼にわかるはずもないと思いつつも、不安が口をついて出た。
「私どもにもわかりません。しかし、声は割と近いように思います。明日以降、此処から遠ざかるまではお一人になりませんようお願い致します」
彼の声は落ち着いているが、静かな厳しさもあった。そこからジェラールは、この緊張感が深刻なものだということを悟った。
「そうだね。しばらく思うように観察ができないかもしれないが、身の安全の方が大事だからね」
不安のためか翌朝いつもより早く目を覚ましてしまった。テントを出ると外はまだ薄暗く、従者や休みを取っていた護衛たちも起きたばかりのようで、まだ身支度をしていた。
早めに食事を済ませ荷物もまとめてしまうと、ジェラールたちは足早に野営地を後にした。
ジェラールは屈強な護衛たちに四方を囲まれて歩いた。今までならあり得ない態勢である。だが周りの鬱蒼とした景色や、あの不気味な鳴き声を上げた生き物が近くにいないか気になり、時折護衛たちの間から周囲の様子を伺った。
シラカバ林の中を歩いていた時である。背後で突然1頭の馬が悲鳴を上げた。
護衛たちが一斉に振り向き、槍や剣を構える。一人が悲鳴を上げた馬に近づいた。ジェラールも陰から覗くと、彼が馬の尻から矢を引き抜くのが見えた。
それを目にした途端、ジェラールは血の気が引いた。誰かが自分たちに向けて矢を放ったのだ。黒から白へグラデーションのかかった矢羽がついており、矢尻は馬の血で赤く染まっていた。すぐに従者が馬の尻に軟膏を塗って手当てをする。
「皆、此処は危険だ。先にロゼット様と従者たちを行かせろ。我々は此処で敵と対峙する。後でお前たちに追いつくから、気にせず行っててくれ」
護衛隊長が部下たちに呼びかける。だがその割に声は小さい。敵に聞こえにくくするためだろう。
ジェラールとすぐ後ろにいる従者たちのところで人が別れ、後ろにいた護衛たちが態勢を変えた。前方にいた護衛たちが何人か後ろに回り、ジェラールにどんどん先へ行くよう促す。
ジェラールは振り返って残されていく護衛たちを見つめた。あそこにいる彼らが皆やられてしまったらと不意に考えてしまう。兵士の数が減れば当然こちらはその分不利になる。彼は残された者たちの無事を祈らずにはいられなかった。彼らの姿が見えなくなるまでずっと後ろを振り返ってばかりいたが、敵が現れる様子はなかった。
焦る気持ちを抑えながら、ジェラールたちは湖のほとりに出た。此処は視界が開けているので、敵が接近してもすぐにわかるだろう。
ところで、あの矢を放ってきた敵は何者だろう。まさかあの不気味な遠吠えの持ち主が矢を放ったのではあるまい。あの声は人間のものとは思えないからだ。
夕暮れになって、林に残っていた護衛たちが野営地に来た。激しく息を切らしているが、少し数が減っている気がする。当初あの林では、30人ほどの護衛たちがいたはずだが、今は20人ほどになっている。また一人の護衛は、足を負傷したのか馬に乗せられていた。
「何があったんだ?!」
ジェラールは事情を聞こうと護衛隊長に駆け寄った。
「ロゼット様、森は大変危険です! 先ほど我々は、醜悪な未開人どもに襲われました。あのままロゼット様たちが居続けたら、無事ではいられなかったでしょう……」
普段は冷静な隊長が、今は声を震わせている。
「どんな奴らだ?!」
ジェラールは間髪入れずに尋ねた。それは敵に対する恐怖もあるし、不謹慎にも好奇心もあった。
「獣や鳥のような体の特徴があって……恐るべき俊敏さと攻撃力の高さを持っています……。ある者はオオカミのような尖った耳や長い尾を持ち……ある者はカラスのような漆黒の羽毛を腕から生やしている……暗闇で光る眼を持ち、足には大きな鉤爪が伸びて……その鉤爪や槍、弓矢で我々に容赦なく襲い掛かってきたのです……」
「…………なんということだ」
彼は衝撃を受け、崩れるようにその場に座り込んだ。敵の恐ろしさもさることながら、その姿の異様さにも彼は驚愕していた。話を聞いている限りだと、噂に聞いていた「鳥獣人」のようではないか!
ジェラールはそれ以上何も言えず、ただぼんやりと湖に映り込む西日を眺めていた。彼の頭の中では、対立する2つの思いが争っていた。恐るべき敵に対する回避したいという思いと、彼らの姿を実際に見て確かめたいという思いだ。
「ロゼット様、くれぐれも近づいて見てみたい、などと考えてはなりませんぞ!!」
隊長はジェラールの考えていることを見透かしたように警告する。その口調はとても強く、厳しかったが、ジェラールは何か違うと思った。
「……君が、私を守るためにそう言ってくれるのはわかる。でも、それじゃあ何のために私たちは此処に来たんだ? 女王陛下の命では、彼らと接触し、神の教えを弘めるのが任務じゃないか。怖がって接触を避けていたら、何も前進しないんじゃないか?」
「し、しかし……」
隊長は頭を抱える。
「大丈夫だよ。私たちには神のご加護がある。細心の注意を払いながらも、ここは大胆に行こうじゃないか」
ジェラールも内心は不安だった。しかし神を信じていれば、成し遂げられないはずがないと確信していた。
「…………。一旦作戦を練ることにしましょう。今いきなり接触するのはとても危険ですので、彼らがどのような暮らしをしているのか観察して、どうすれば穏便に接触できるのか考えてから行動しましょう」
ジェラールたちは数日間此処で野営し、辺りの環境を調べてから移動することになった。それまでの間、彼はずっと待機せねばならなかった。
その夜、彼はテントの中でまたあの気味の悪い吠え声を聞いた。以前聞いた時より、声は大きいしはっきりと聞こえる。武装した護衛たちが甲冑をガシャガシャ鳴らしながら動く音も聞こえる。彼は寝袋に潜り込んで身を抱えた。
あの声と「鳥獣人」らしき敵が同じかどうかはわからないが、どちらも敵意に満ちているのは同じだ。彼らは何故、そこまでしてジェラールたちを排除したがるのか。護衛隊長には自信満々に言ったものの、本当にこんな種族に、布教することなど可能なのか、甚だ不安であった。
結局ろくに眠れずに朝を迎えてしまった。皮肉にも夜が明けてから瞼が重く感じる。
そろそろ食料が底をつき始めたので、この湖で釣れた魚で食事をとった。焚き火と積み重ねた石で作ったかまどに底の浅い鍋を置いて、手のひらサイズの小さな魚がそのまま載せて焼かれるのを、ジェラールはぼんやりと眺めていた。彼は身の危険が迫っているにもかかわらず、今ひとつ緊張感を持てていないことが不思議だった。自分は守られているから安全だ、と心の奥底では思っているのだろうか。
皿に盛られた焼き魚を受け取った。香ばしい良い匂いがするのに食欲が湧かない。フォークで身をほぐしながら口に運ぶ。中まできちんと火は通っているが、焼きすぎているのかパサパサする。塩も焼きあがる直前に振られたので、身の方には塩気がない。
頭と尻尾を残し、茶を飲みながら口を漱ぐと、湖の対岸付近で何か大きな生物が佇んでいるのを見つけた。朝の霧の中に包まれて全体がよく見えないが、巨大な馬かシカのように見える。此処の馬たちよりも一回り、いや二回りくらい大きいだろう。高く張り出した肩甲骨に、膨らんだ鼻面。その動物はしばしば水面に顔を突っ込み、水草か何かを食んでいる。
あんな大きな動物にも天敵がいるのだろうか。そう考えるとジェラールはぞっとした。同じぐらい大きくて、獰猛な肉食動物がこの地にいるということになるからだ。そいつらにとって人間など敵ではないだろう。
朝の支度が済んでからも、彼は自然観察に身が入らなかった。従者たちは負傷した護衛たちの手当てをしたり、汚れた衣類を洗濯したりしている。杭につながれた馬たちも落ち着かないのか、荒く鼻を鳴らしたりジタバタ動き回ったりしていた。
昼下がりの湖畔は不気味なほど静かで、動物の気配もほとんどない。時折カモやハクチョウたちが舞い降りてくる程度である。気を紛らわすためこれまでのスケッチやメモの整理をしていたら、あっという間に夕暮れになってしまった。
見回りに行っていた護衛たちも戻ってきたが、特に異常はないとのことだった。むしろ、此処にとどまっている方が敵に居場所を特定され危険だということになり、明日早朝此処を発つことになった。
日は落ち、また夜を迎えてしまった。昨晩同様、交代で護衛たちがかがり火を灯して寝ずの番をしている。この日は満月だった。灯りがないところでもテントや人の姿がはっきりと見える。
遠くでまた遠吠えがした。しかし今度は、初めての夜に聞いた、あの美しい遠吠えだった。この声に敵意は感じない。まるで不安に怯えるジェラールをなだめてくれるかのようだった。
寝袋にくるまってうとうとしていた時、外がやけに騒がしくなった。護衛たちが声を荒げて呼びかけ合うのが聞こえる。激しく地面を蹴り、走り回っているようだ。ジェラールはテントからこっそり顔を出す。
かがり火は彼が寝る前に比べ激しく燃え盛り、護衛たちは銃を装填したり暗闇の向こうに構えたりしていた。何かいるに違いない。
「ロゼット様! 駄目です! 中に入っててください!!」
一人の護衛がジェラールに気付き叫んだ。咄嗟に彼はテントの中に籠った。
「あそこにいるぞ! 撃て!」
隊長が叫ぶと、一斉に大きな銃声が鳴り、辺りが煙に包まれる。遠くで醜い悲鳴が轟いた。
何度も発砲音が鳴り響くが、敵らしき声はどんどん近づいてくる。
そのとき、テントに誰かが飛び込んできて、ジェラールは心臓が止まりそうになった。
「ロゼット様、もう此処にはいられません! さあ、お荷物をまとめてこちらへ!」
声からしてかなり若そうな兵士だった。
ジェラールは寝袋に書類や筆記用具を詰め込み、それらを丸めてテントから出た。護衛は既に軽い荷物のみ袋にまとめて背負っている。
「テントはそのままにしておきましょう! 時間がありません!」
状況をまだ把握できていないジェラールを尻目に、護衛は皮手袋をはめた手でジェラールの右手首を掴んで走り出した。護衛の足の速さについていけず、彼は何度も躓きそうになる。
ジェラールは置き去りにされていくテントを振り返った。周辺では残された護衛たちが、今度は槍や剣を構えている。敵はすぐそばまで迫っているようだ。
「うわっ!!」
前方を疎かにしていたせいで、彼は転んだ。硬い石が露出していたところに、膝を思いきりぶつけてしまった。激しい痛みにぎゅっと目をつぶる。
「大丈夫ですか?! さあ、私につかまって!」
護衛が差し出した手に掴まろうとするが、あまりの痛さに体がうずくまる。背後では悲痛な叫び声が聞こえる。
ジェラールは震える手で護衛の手に掴まり、ゆっくり起き上がると、今度は振り返らずに全速力で走った。
森の中に逃げ込み、低木の茂みに身を潜める。此処ではろくに物が見えなかった。
一体、外では何か起きていたのだろう。まさかこの間護衛たちを襲ったあの「鳥獣人」たちが、今度は自分たちの野営地を襲ってきたのだろうか。夜でよく見えなかったし、先に護衛には連れ出されてしまったので、詳しいことはわからない。
「なあ、いったい何が起きているんだ? この間の敵がまた襲ってきたのか?」
隣で身を潜める護衛に、ジェラールは殆ど息だけの声で尋ねる。
「私どももよく見ていません。しかし、我々を襲う何かが迫っていることだけはわかりました。これ以上留まることは危険だと判断し、貴方様をお連れ出しいたしました」
暗闇のせいで彼の顔はまったくわからない。真顔でいるのか、恐怖で歪んでいるのか、声を聞く限りでは判断できなかった。
「こんなの、今日だけのことだよな? また皆集まれるだろう?」
胸にしまっておくのは苦しかったので、ジェラールは淡い期待を込めて護衛に尋ねた。
「…………さあ、どうでしょうか。皆散り散りに逃げてしまいましたので……」
護衛のその声には、期待の欠片も感じられない。ジェラールの脳裏に最悪の展開が過った。
彼は体が凍り付いて、しばらく動けなかった。
「今夜は此処で夜を明かすしかないでしょう。お体が冷えますので、寝袋にくるまっていてください」
ジェラールはその指示に従いたくなかった。受け入れたくなかった。彼は無言で、膝を抱えて座った姿勢のまま動かなかった。肩や足からじわじわと寒気が襲う。夜のカハラディアは冷えるのだ。
ジェラールは俯き、胸の中で叫んだ。
(神よ! どうか我々を守り給え! 我々は必ず、貴方の教えを弘め、この地に光をもたらします!)
ジェラールの気持ちを察していたのか、護衛はしつこく声をかけてこなかった。持っていた毛布をそっと肩に掛けてくれた。
眩しい光を浴びてジェラールは目が覚めた。こんな状況にもかかわらず寝てしまったようだ。しかし体はすっかり冷えてしまい、顔を上げたときに肩がぶるっと震えた。
「お目覚めですか?」
護衛がジェラールに優しく声をかけてくれた。護衛は彼から少し離れたところで向かい合って座っていた。
「君は……眠れたのか?」
護衛は軽く首を振った。
「いいえ、貴方様をお守りするため、ずっと見張っておりました。幸い敵は此処まで追ってこなかったようです」
兜の下から見える、あどけなさの残る顔立ちからは想像もできないほど、護衛は落ち着いていた。
「他の者たちは……皆大丈夫なのか?」
ジェラールはすぐにまた昨晩の恐怖が蘇った。
「わかりません。私たちのように逃げ出せた者もいるでしょうし、あのまま野営地で戦い続けた者もいるでしょう」
護衛は不気味なほど無表情で淡々と話す。ジェラールの前では冷静なふりをしているのだろうか。
「……今後、どうすればいいと思う?」
ジェラールも護衛に合わせるように感情を抑えて言う。
「また彼らと合流できるまで、しばらく私たち2人で過ごすしかないと思います。敵には既に私たちの居場所を知られているので、野営地に戻るのは危ないでしょう。彼らはもしかしたら、私たちを散り散りにするのが目的だったのかもしれません。分散させることで弱体化させようとしているのでしょう」
今護衛が言った「弱体化」とは、すなわち「対抗できなくする」ということだろう。
近くにまだ敵が潜んでいる可能性があるため、ジェラールたちは火を起こさず、革の水筒の水だけを飲んで移動することにした。なるべく音を立てぬように、最低限の言葉のみ交わし、歩き方にも気を配った。
道中、彼の悪い予感が的中したことを裏付ける光景を目にしてしまった。
「そんな……!!」
十歩ほど離れた茂みの奥で、人が倒れている。服装からジェラールの従者であることは間違いない。うつ伏せになり、風が吹いてもピクリとも動かない。駆け寄ろうとする彼を護衛が腕を伸ばして止め、代わりに護衛が倒れた従者に近づいた。膝をついて、従者の手首に触れる。
「駄目です。命を落としたようです……」
護衛は振り向いて静かに言った。だがその目はジェラールを見ていない。
ジェラールは絶句した。戦争で人が死ぬとは、こういうことなのか。彼は戦場に立ったことがないので、目の前で人が殺されて死んでいる光景には免疫がなかった。しかもその死は、次は我が身だということを暗示している。
彼はパニックに陥りそうだった。でも、此処でパニックを起こしたら今度は自分が殺される。彼は必死で落ち着こうと、死んだ従者のために祈りを捧げた。
護衛は、従者の手に何か握られているのに気付いたようだ。そっと右手に手を伸ばし、ゆっくりと引き離す。
それは丸められた羊皮紙だった。羊皮紙を開くと、護衛はすぐにジェラールに差し出した。
「ロゼット様。これは今まで我々が歩いてきた道筋を描いてきた地図です。彼は最期に、貴方様にこれを渡そうとしていたのでしょう」
差し出された地図を見た途端、ジェラールの目から大粒の涙が零れ落ちた。
手が震えてうまく受け取れない。やっと受け取って開いてみたものの、涙で視界が歪みよく見えない。涙を拭って見てみると、道筋だけでなく、目印となるような山や川、湖、森の植生などもわかりやすい記号で丁寧に記されている。
彼は確信した。
(そうだ、これは神の思し召しなんだ。たとえ野蛮な種族に襲われても、いや、だからこそ、この地で神の教えを弘めなければならない。私にこの作りかけの地図が託されたということは、私にはこの地図を完成させねばならない使命があるということなんだ!)
ジェラールは涙を拭い、顔を上げた。もう、行くしかない。前に進むしかないのだ。
第2章 茂みの向こう
ジェラールたちは此処2、3日、森に身を潜めるようにして過ごした。食べられるものや水飲み場などを探すため、周囲に気を配りながら少しずつ森の中を散策し、地図に記していった。
悲しい事にも、その後も彼らは何度か護衛や従者たちが殺されているのを見かけてしまった。ジェラールは目を背けたくなるのを必死に堪え、祈りを捧げた。倒れた姿のままなのはあまりにも不憫なので、地面を掘って土葬にしたり、或いは近くの岩陰や小さな洞穴に隠して花を手向けたりして、一人ひとり丁寧に葬った。
生き延びるためには、気持ちが沈んでいても食べるしかない。この時期は熟れたベリー類がよく採れた。ユーリタニアでも馴染みのあるラズベリーは勿論のこと、青色をした大粒のベリーや、赤紫色をしたベリーもあった。
川では魚を釣ったり、水筒の水を補給したり軽く顔や手を洗うなどした。しかし、ジェラールは着替えを持っていなかったので、ずっと同じ服を着続けていた。自分ではよくわからないが、そろそろ臭くなっているに違いない。敵はきっと嗅覚も鋭いだろうから、この自分のにおいを嗅ぎつけるかもしれない。だが不用意に服を脱いで襲われたりでもしたら、すぐに逃げることができない。此処では自分たちはよくよく不利だと思い知らされた。
ある昼下がり、一休みしていたときのことだ。少し離れたところで茂みがかき分けられる音がして、ジェラールたちは咄嗟に身を潜めた。近くで人の声がする。男性らしき低い声と、女性らしき比較的高い声だ。しかし何を話しているのかわからない。ジェラールは耳をそばだてた。
声はだんだん近くなり、聞き取りやすくなった。しかし、相変わらず何を言っているのかわからない。ジェラールの知らない言葉で話しているのだろうか。
茂みの向こうから人影のようなものが見えた気がして、彼はうつ伏せになってさらに身を屈める。そして低木の幹の間からその姿を見ようとしていた。そこでジェラールは、信じがたいものを目にしてしまった。
彼らの前に、奇怪な亜人たちが現れたのである。彼らは謎の言葉のお喋りに夢中になり、ジェラールたちに気付いていないようだ。
中央にいる腕を組んだ屈強な体の男の前腕には、真っ黒な羽毛が生え、手の甲までびっしり覆われている。足元に目をやると、護衛隊長が言っていた通り、ワシのような鋭い鉤爪が足の指先からにゅっと長く伸びていた。左側には少し背の低い、女と思われる亜人がいるが、こちらは普通に靴を履き足先は露出していない。イヌかオオカミのようなふさふさした灰色の尻尾が胴着の下からちらちら見え、前腕には同じような色の剛毛が生えている。顔の方に視線を移すと、頬が分厚い毛で覆われ、耳も毛深く尖っていた。右側にいるもう一人の男も、女と同じような外見をしているが、こちらは髪や体毛が濃い褐色をしていた。
突然女が甲高い笑い声をあげた。あの笑い方は不思議とユーリタニアの町娘を彷彿とさせるが、開いた口の中から鋭く尖った牙が顔を出したのを、ジェラールは見逃さなかった。
彼らは奇妙な曲線模様の描かれたベストを着て、なめし皮のブーツを履いているが、ジェラールたちよりも薄着をしているように見える。中央の男と左の女は矢筒を肩にかけ、右の男は背丈ほどもある槍を持っている。
ジェラールが女の矢筒に目を向けたとき、彼はぎょっとした。黒から白へグラデーションのかかった矢羽の矢が何本か入っている。あれは以前ジェラールたちがシラカバ林を通る道中、馬の尻に刺さった矢とそっくりではないか!
やはり、彼らがあの時の犯人だったようだ。まさかこの間夜襲をかけてきたのも、彼らだったのか?
ジェラールは身の毛がよだち、動けなくなってしまった。彼らは今何を話しているのだろう。ジェラールの仲間を殺して喜んでいるのだろうか。
奇妙な身体の特徴を持ってはいるが、我々にかなり近い姿をしている。顔つきはほぼ人間と同じだし、言葉で意思疎通をしているし、服を着て武器を持っているのも、ジェラールたちと同じだ。
彼らは一体なぜジェラールたちを襲うのだろう。まさか食べるため? 否、食べる目的なら体の一部がなくなっていてもおかしくない。しかしジェラールたちが発見した限りでは、殺された味方の体は切断されていなかった。では自分たちを危険な侵入者だと考えている? 馬の尻に矢を放っても退かなかったから、大勢で追い払おうとしてきたのか。
ジェラールがいろいろ考えている間に、彼らは喋りながら森の奥へ行ってしまった。姿が見えなくなり、緊張が解けた途端、ジェラールは大きくため息をついた。
「ロゼット様、いかがいたしましたか?」
ずっと隣にいた若き護衛――エリクが小声で声をかけた。ジェラールはすぐに声が出ず、口をパクパクと動かすことしかできなかった。
「……本当に……本当にいたんだな……。『鳥人』に……『獣人』が……まさか実物と……あんな間近で遭遇するとは……」
過呼吸になって、喘ぐように言った。
彼はとても興奮していた。あの不思議な種族に対しては、恐怖より好奇心の方が勝っていた。彼が持っている頭蓋骨の持ち主の仲間が、遂に目の前に姿を現したのだ!
彼らは何故あのような姿をしているのだろう。彼らはどんな暮らしをしているのか。上陸する前に海で見つけた人魚型の「獣人」の時のように、ジェラールは次々と疑問が思い浮かび、知りたくてたまらなくなった。
「エリク……その……頼みがあるんだが……」
彼は今エリクに、絶対拒絶されそうなことを言おうとしていた。
「……ばれない程度に、今の連中の後をついて行きたいんだ……。その、これは……単なる私の好奇心じゃなくて……連中の実態を把握して、今後のカハラディア開拓にも役立てたいんだよ」
エリクに言い返される前に、先にもっともらしい理由を急いで付け加えた。
「…………そう仰るだろうと思っておりましたよ」
エリクは拒絶しなかったが、あまり乗り気でもなさそうだ。
「ああ、やっぱり?」
思わず苦笑いが出る。だがエリクは笑っていなかった。
ジェラールたちは勘を頼りに、先ほどの「鳥獣人」たちが向かった方へ忍び足で進んだ。彼は僅かな物音にも過剰に反応し、自分たちが踏みつけて折れた小枝の音にも、心臓が飛び出しそうになった。
日が陰り始めたところで、ようやくあの「鳥獣人」たちを見つけた。ジェラールは再び見られた感動と、見つかって襲われたらという恐怖が同時に起こった。
「鳥獣人」たちは木の枝を組み合わせて作られた簡素な門をくぐっていった。門の上には角の生えたシカの頭蓋骨が括り付けられている。門の両側には、槍を持って仁王立ちした2人の男が立っていた。2人とも頬と腕が毛深く、耳が尖っている。
門の周りは木の柵で囲まれ、中がどうなっているのかわからない。耳をそばだてると、中では複数の「鳥獣人」たちがいるのか、話し声が聞こえる。
ジェラールとエリクは門から少し離れたところにある木立の奥で、低木に身を潜めて様子を伺った。
門番をしている男の一人が鼻をひくひくさせた。ジェラールはにおいを嗅ぎつけられたのかと思い、背筋が凍り付いた。ところが男はただ大きくくしゃみをしただけだった。
「ロゼット様、この後いかがいたしますか? 日も傾いてきておりますし、此処で野営するわけにもいかないでしょう」
エリクがジェラールの耳元で囁いた。言われて彼ははっとした。今夜過ごす場所を考えていなかったのだ。
そういえば、向かう道中小川があった。あそこで過ごせばいいかもしれない。適当な茂みに寝床を作り、そこで寝泊まりすればいい。
「さっき川があっただろう? あそこで今夜は過ごせばいいんじゃないか?」
兜で隠れたエリクの耳元でジェラールも囁いた。だがエリクはすぐに返答せず、しばらく何か考えていた。
「……どうでしょうか。あそこは奴らも使っている可能性はありませんか? 私たちが休んでいるところを見られて、襲われることも十分考えられますよ?」
「………………」
慎重なエリクの発言を聞いて、ジェラールは少々苛立ちを覚えた。エリクに苛立っているのではない。彼の言うことは十分可能性がある。彼らに襲われることを心配して、行動が制限されることが嫌だったのだ。
結局ジェラールたちは途中まで来た道を戻ることにした。そして森の深い茂みの中で、木の枝と布で簡単なテントを作った。
だが敵はあの「鳥獣人」だけではない。森に潜む動物たちだって脅威になり得る。焚き火を起こせば彼らを遠ざけられるだろうが、そうすると今度は「鳥獣人」に気付かれてしまう。ジェラールたちは寒さと恐怖に耐えながら、明かりのない夜を過ごさねばならなかった。
ジェラールとエリクは翌日、翌々日と「鳥獣人」たちの集落の前で張り込んでいた。観察していると、彼らの形態には主に3種類あることがわかった。1つは腕にカラスのような黒い羽根が生え、尾羽のついた細長い尻尾、足に鋭い鉤爪のある「カラス型」、2つ目は褐色もしくは灰色の体毛が生え、オオカミのような尻尾と耳を持つ「オオカミ型」、そして3つ目だが、このタイプは一見我々と同じような姿をしているように見える。ジェラールはこれについては暫定的に「不明型」と呼ぶことにした。
だが観察を続けているうちに、あそこは集落というより「鳥獣人」の戦士たちの駐在場所のように思えた。同じ外見の「獣人」や「鳥人」が何度も出入りするのを見たし、子どもの気配もない。ジェラールたちと年の取り方が同じならば、18歳から20代後半と思しき若い世代が集中している。
ジェラールは敢えてスケッチはしなかった。スケッチをするということは、つまりその対象を凝視するということだからだ。自分たちに対して殺意しか抱いていないであろう相手を凝視すれば、視線を感じて襲ってくるかもしれない。だから彼は気づいたことをメモしておくことしかできなかった。
離れたところで用を足そうと、腰を上げた時である。左前方から人の叫び声が聞こえた。
「離せ! 何をする! 俺が何をしたって言うんだ!」
はっきりと言葉として聞こえた。そう、今のはアルゴメア語だったのだ! ジェラールは尿意も忘れてさっと声のした方を見た。
白い襟につばの広い帽子、黒い上衣に半ズボンの見慣れた服装の男が、いかつい「鳥獣人」の戦士たちに両腕を抱えられている。その人物を見て、ジェラールは自分の従者だと確信した。だが戦士たちの陰で顔がよく見えなかった。
黒い服の人物は必死に体を動かして男たちを振りほどこうとするが、男たちはびくともしない。そのまま従者は門の向こうへ連れていかれてしまった。門の向こうでも従者の叫び声がする。
(彼はどうなってしまうのだろう? まさか拷問にかけられるのか?)
ジェラールは恐ろしくなって思わず後退りした。そのとき後ろに引いた右足が、甲高く小枝を踏み折る音がした。
彼の背筋が凍り付いたと同時に、前方で別の叫ぶ声が聞こえた。
「ж*@¥%#$?!」
聞き慣れぬ言葉だった。ジェラールは考える間もなく踵を返して走り出し、エリクも彼に続く。後ろから次々と男たちの叫び声が聞こえる。向こうで起こっていることは考えたくなかった。
息が続く限りジェラールは走り続けた。どこへ向かっているのかもわからず無我夢中で走る。追っ手が近づいているのかどうかわからない。すぐ後ろにいるエリクもジェラールの速度に追いつこうと必死なようだ。火事場の馬鹿力というのか、不意に自分の想像以上の足の速さに驚いた。
いつの間にか、ジェラールたちは吊り橋の前まで来ていた。縄で編んだだけの非常に脆そうな造りだ。後方で追っ手の足音が迫ってくる。下を見ている暇はなかった。
肩の高さまである綱の手すりに掴まりながら、彼らは慎重に、かつ急いで橋を渡る。綱が引っ張られて不気味にギイギイ鳴ることは、あまり気にしないようにした。
橋を渡りきったとき、背後で突然、バチンっと何かが千切れるような音がした。振り向くと、ジェラールたちが渡った橋が切れて崖の下に垂れている。向こうの崖の淵では、あの「鳥獣人」の男たちが並び、悔しそうに声を荒げていた。
もう、これで追って来られない……。そう安堵した瞬間、どっと疲れが出てジェラールは倒れこんだ。
「ロゼット様?! ロゼット様!! どうなさいましたか?!」
エリクが彼を呼ぶのが聞こえたが、その後のことは覚えていない。
第3章 毛皮をまとった男
目が覚めた時には、既に丸1日経っていたらしい。ジェラールが気を失っている間、エリクがずっとジェラールの世話をしてくれていたそうだ。
慎重で用意周到なエリクは、寝袋や食料といった生活必需品をきちんと持ってきていた。彼が言うには、こういう事態が起こることは既に想定していたので、常に携帯していたという。常に片手に矛槍を持っているのに、こんな大荷物を抱えて大変だろう。ジェラール一人だったら、今頃手ぶらだったに違いない。
敵の脅威が去り安堵したのも束の間、彼は此処に至るまでの道を記録しなかったことを後悔した。もはや来た道を戻れないとはいえ、あの「鳥獣人」たちの集落(かもしくは集合場所)から此処がどれぐらい離れているのか、今まで野営してきた場所からどの位置にあるのか、これではさっぱりわからないのだ。
今まで書いてきた地図にはもう書き込めない。仕方なくジェラールは新しい紙に此処を起点として地図を記していくことにした。
今彼らがいるのは、草がまばらに生えた開けた場所だった。前方は崖になっていて、後方に再び森が広がっていた。朝焼けなのか夕焼けなのか、薄紫色の空に遠くの山々が青くうっすらと連なっているのが見える。周囲に川や湖はない。水や食料も底をつきそうなので、翌日此処を発つことにした。
翌朝、空はどんよりと曇っていた。いかにも雨の降りそうな天気である。ジェラールたちはカハラディアに来てから既に2度雨を経験している。マントに木の樹液を塗りつけて作られたレインコートを着て出発した。
森の中を歩き続けてしばらくすると、ぽつ、ぽつ、と雨が降り出した。やがて雨足は強くなり、瞬く間にどしゃ降りになってしまった。こんな状態では視界も悪く地面も滑りやすいだろう。彼らは適当な木陰で雨宿りして過ごした。
ようやく雨が上がったころには、既に日は高くなっていた。今日はまだろくに食事をしていないので、ジェラールはひどく空腹だった。
森の中をうろうろしていると、前方に地面が盛り上がっているところがあった。
近づいてよく見てみると、小山の下からシカの頭と足がはみ出ている。何者かが中途半端に埋めたようだ。
「なあエリク、ちょっと見てくれ」
ジェラールは後ろで茂みを探っているエリクに声をかけた。
「どうしましたか?」
エリクが早歩きで彼に近づいた。
「これ、きっと誰かの食べ残しだよな? 取ったシカを食べきれなくて、土に埋めて隠したつもりにしてるんだよな?」
随分そそっかしい狩人だと思い、ジェラールは軽く笑いながら話す。
「……何を仰るつもりでしょうか?」
エリクはジェラールが次に言わんとすることに、既に慎重になっているようだ。
「エリク、私たちは今朝ベリーを数粒食べただけだ。このままじゃ体がもたないと思うんだよ。此処にこんな栄養価のあるものが埋まっているのは、紛れもない幸運だと思うんだが」
するとエリクが2、3歩後退りして首を振った。
「何を仰いますか? 駄目ですよ! これはきっと『鳥獣人』か肉食動物が獲って埋めたものに違いありません。下手に私たちが掘り起こして、目をつけられたらどうなりますか? 今度こそ無事ではいられませんよ!」
エリクの声には危機感がある。だが此処を去るのは惜しかった。辺りを見渡して「鳥獣人」や動物がいないか確認しようとする。
「私たちがぱっと見てわかるような相手ではないでしょう。残念ですが、此処は諦めるのが賢明かと存じます」
とエリクが言ったとき、
「何をしている」
どこかで別の声がした。
ジェラールは声のした方を向くが、人影らしきものは見えない。
「そこから離れろ、早く!」
割と近い所から、男の声が聞こえる。しかもその声は、エスニア語を喋っていた。敵国の言語とはいえ、ジェラールはエスニア人との遭遇も想定してエスニア語を習得していた。
地面を踏みしめる音が聞こえ、木の陰から奇妙な風体の人物が姿を現した。
頭からオオカミの毛皮を被った男が、弓に矢をつがえてジェラールたちの前に立ちはだかった。オオカミの全身ひとつながりの毛皮を纏い、胸元だけ露出している。
「君は誰なんだい? 私たちに何の用だ?」
ジェラールもエスニア語で答えた。この男、もしかしたらエスニア人かもしれない。
「おれはこの辺りに侵入者がいないか見張ってるんだ。此処はお前たちが来る場所じゃない。とっとと失せろ!」
男の口調はよりきつくなり、矢尻を向けたままじりじりと迫ってくる。ジェラールたちもそれに合わせるように少しずつ後退りするが、彼は納得がいかなかった。この男は何者なのか、何故こんな怪しい人物に追い払われなければならないのか。
「ちょっと待ってよ。君は一体何なんだ? 私たちが来る場所じゃないってどういうことなんだ!」
とジェラールが尋ねて間もなく、何かが猛スピードで地面を蹴って迫ってくるのが聞こえた。振り向いた時には、褐色の巨大なクマが既にジェラールたちのすぐ目の前にいた。咄嗟にエリクがジェラールの前に出て矛槍を構えたが、クマは鋭い鉤爪の生えた前足を振り下ろし、一瞬にしてエリクをなぎ倒した。被っていた兜が外れ、長いくせ毛の金髪が露わになる。
「エリク!!」
クマはさらに攻撃を加えようと仁王立ちになる。その直後、クマのわき腹に矢が刺さった。
「グァッ?!」
クマはよろめき矢が飛んできた方を向く。矢を放ったのは、あの毛皮を被った男だ。
男はさらに2本ほど矢を放つ。クマがエリクから注意を逸らした隙に、ジェラールはエリクを抱きかかえた。
そばかす顔の若い護衛は無言で苦痛に顔を歪めている。幸い胴体は鉄の防具に守られていたため無傷だったが、防具のない腿は大きく引き裂かれていた。血がドクドクと吹き出し、目を背けたいほどの有様だが、そんな余裕もなくジェラールはエリクを抱えて逃げ出した。
だが自分と大して背丈も変わらない、しかも武装した兵士をそんな長距離にわたって運べるはずもなかった。50歩ほど進んだところで力尽き、ジェラールは倒れるように座り込んでしまった。
背後でクマが地響きのような悲鳴を上げている。やがて静かになり、振り返ってみるとクマは倒れて動かなくなっていた。
ジェラールはエリクの方に向き直り、傷口に手を押し当てて止血しようとする。だが指の間から絶え間なく血が噴き出してくる。
そこへ先ほどの男がジェラールたちのもとへ駆けつけてきた。「どけ!」と言って割り込むと、腰の袋から厚手の布を取り出し、それを傷口に当てて両手を乗せ、体重をかけて圧迫した。しばらくして出血が治まると、男は包帯のような細長い布を取り出し、止血する時使用していた布を被せたまま傷口をきつく縛った。
オオカミの毛皮を被っているという、見るからに野蛮そうな風体からは想像がつかないほど、男は手際良くエリクの応急処置をしてくれた。
「傷口は心臓より高くしたほうがいい。倒木に足を乗せて寝かせるんだ」
ジェラールは男に手伝ってもらいながらエリクを抱え、朽ち始めている倒木に両足を乗せ、頭を下にして寝かせた。
「このまましばらく安静にさせておけばいい」
「ありがとう! 助かったよ!」
ジェラールはこの命の恩人に心から感謝を伝えたが、男はクールだった。
「こんなところで何をしてたんだ? まさかヒグマの食べかけを漁ろうとしてたんじゃないだろうな」
「………………」
男は両手を腰に当て、大きくため息をついた。
「お前たち、全く森で生活したことがないんだな。動物の死骸には無闇に近づかないなんて、常識だぞ」
男は動かなくなったクマを見つめていた。
「お前たちのような無知な侵入者のせいで、また精霊の使いが悪霊と化してしまった……」
男の声は悲しげだった。ジェラールは恐る恐る男に話しかける。
「……私たちに立ち去るよう言ったのは、クマから私たちを守るためだったのかい?」
男はキッとこちらを睨みつけるように顔を向ける。だが毛皮のオオカミの頭が邪魔で下の顔がよく見えない。
「馬鹿を言うな! むしろ逆だ。このクマが、人を襲って悪霊になってしまうのを防ぎたかったんだ。移民どものせいで、不幸なクマがどんどん増えているんだ」
男の言うことにジェラールは面食らったが、ひとつ気になる言葉があった。「移民」とは、誰に対しての言葉だろう。またクマの方が大事だというなら、何故エリクの手当てをしてくれたのか。冷たい言い方をしておいて、本当はジェラールたちのことを仲間のエスニア人だと思っているのではないか。
「君は……本当に何者なんだ? そんな格好で、何をしてたんだい?」
ジェラールは相手をエスニア人だと思って、そして自分もエスニア人になったつもりで尋ねた。
「お前たちには関係のないことだ」
男はきっぱりと言った。下を向いていて顔が見えないので、オオカミが喋っているようにも見える。
「こっちも聞きたいことがある。此処で何をしていた?」
男が顔を上げて尋ねてきた。ようやく毛皮の下の顔が見えたが、無数の模様が描かれているため顔立ちがよくわからない。――――否もしかして、仮面か……?
ジェラールが無意識に男の顔を凝視していると、男が「何だ?」と尋ねた。
「それは、仮面かい?」
「はあ?」
「毛皮のフードに加えて、仮面までつけてるのかい?」
「それがどうした?」
男は自分の容姿について、まるで気にもかけていないかのように触れない。
「それよりおれの質問に答えろ。此処で何をしていた?」
「……だから、此処でクマの食べかけを漁ろうとしてて……」
「そういうことじゃない。この土地――――カハラディアへ何しに来たと聞いてるんだ」
男は間髪入れずに問い直す。まさかこの男、ジェラールたちがエスニア人ではないと気付いているのだろうか。
「いや……それはその……自然調査だよ」
ジェラールは適当なことを言ってやり過ごそうとする。
「ふうん、自然調査ねえ。カハラディアはおろか、森のことを何も知らないから、調べに来たのか」
随分嫌みな言い方だ。男はジェラールの言葉を真に受けていないように感じられる。
「本当はもっとそれ以上の目的があるんじゃないのか?」
ジェラールの予感は的中した。背中に嫌な汗をかくのを感じる。
「実はお前たちのことは、ずっと前から見ていた。お前たちの仲間はネネ・ピズたちに殺されたり連れていかれたりしてるようだが、お前たち2人は悪運が強いのか今日までずっと生きながらえているようだな」
今男から聞きなれない言葉が出てきた。だがそれよりも、ずっと見られていたということにジェラールは恐怖を覚えた。
「おれが現れるまでお前たちはおれの知らない言葉を喋っていたから、ああ、恐らく別の部族から来たんだなと思ったよ。カハラディアを開拓しようとする移民の部族は他にもいるんだなって」
男が言う部族とは、国家のことだろうか。国を部族と捉えるあたり、どことなく未開人らしい感じがするが、もし「鳥獣人」だとしたら何故エスニア語が話せるのだろう。いや、そんなはずはない。今まで関わってきた「鳥獣人」たちは、ジェラールたち人間を見るなり襲ってきた。そんな彼らが、ユーリタニアの言葉を話せるわけがない。やっぱりこの男は、エスニア人に違いない。毛皮を被って「鳥獣人」になりきったつもりなのだ。だから国のことを部族と言ったり、アルゴメア王国のことを知らないふりをしたりしているのかもしれない。
ジェラールは覚悟を決めた。この男は未開人になりきってジェラールたちに探りを入れようとしているに違いない。こちらがアルゴメア人だとばれてしまったのなら、今更エスニア人のふりをすることもない。
「そうかい、わかったよ。君はそうやって『鳥獣人』になりきって私たちに接近しようとしてるんだ。『もうお前たちがアルゴメア人だってことは知っている。今更隠し通せるなんて思うなよ』って言いたいんだろう。クマから助けてくれたのも、私たちから情報を聞き出すためだったんだな」
ジェラールは心臓の鼓動が早くなり、手がぶるぶる震えていたが、必死に平静を装った。まさかこんな早く宿敵と対峙する時が来るとは思ってもみなかった。
だが男の方は、ジェラールの言っていることが伝わっていないのか、きょとんとしていた。
「はあ?」
男は首をかしげて腕を組んだ。
「アルゴメア……? それがお前たちの部族名か?」
「い……今更気付いたように言うな! 最初から知ってたんだろう!」
男はジェラールを見つめたまましばらく無言だった。かろうじて見える目元は木目のような模様だった。
「ああ、お前はおれのことをそんなふうに思ってたのか」
「え……?」
男の予想外の反応に、ジェラールは拍子抜けした。
「ならそれでいい。おれのことをなんと思おうとお前の自由だ」
「なんだ……それ」
自分がエスニア人であることがばれてしまい、言い逃れできなくて開き直ったのだろうか。いや、やっぱりエスニア人ではないのだろうか。ジェラールは急に、靄を掴むような感覚に襲われた。
「まあな、さっきは本当にお前たちにどいてほしかったんだけどな、やはり目の前で人が怪我すると放っておけないだろ。だからつい助けてやりたくなっちまったんだ」
男はエリクの方を向いた。エリクは寝かされたまま動かない。
「で、おれを敵だと認めたところでどうする?」
男がジェラールに向き直った。
「見た限りじゃ、お前はあの若い護衛がいないと明日にでも死んでしまいそうだよな。怪我が回復するまでおれがお前たちの面倒見てやった方が良いんじゃないか?」
口元は仮面ではなくフェイスペイントなのか、動くのが確認できた。
(え……?)
犬歯の辺りが少し尖っていたように見えたが、単に八重歯だっただけかもしれない。
一瞬違うことを考えてしまったが、ふと我に返って、今男が恐ろしいことを言っていたことに気付いた。エスニア人の世話になるだと?! それってもはや彼らの捕虜になるも同然ではないか!!
ジェラールは深く後悔した。やはりクマの食べかけに近づくべきではなかったのだ。頼りにしていた護衛は怪我を負い、その結果「鳥獣人」に扮したエスニア人の捕虜となってしまった。彼のカハラディア探検は、失敗に終わった。
第4章 月明かりの下
ジェラールは屈辱的な気持ちでいっぱいだった。「鳥獣人」にまともに接触できなかったどころか、それに扮しているエスニア人の世話になってしまっているのだ。自分がもっと大自然の中で生き抜く知恵や能力を持っていれば、こんなことにならずに済んだのにと、今更考えたところでどうにもならないことを、彼はくよくよ考えてしまった。
男はどういうわけか、ジェラールたちに正体がばれても毛皮や仮面を外そうとしなかった。そして自分のことは、見た目に因んでいるのか「狼男」と呼べと言った。
「狼男」は甲斐甲斐しいと言いたいくらい、ジェラールやエリクの身のまわりを世話してくれた。エリクの傷を縫って包帯を取り換えたり、ベリーや獲って捌いた動物の肉を持ってきたりしてくれた。また「狼男」は、ジェラールたちがこの森を生き抜くために、獲物を罠で仕留める方法も教えてくれた。
例えばウサギを獲る場合は、ウサギの獣道を探し、そこにスネアをかけた枝を渡しておいたり、或いはスネアにかかるとバネ木が跳ね上がるはね罠を使ったりした。リスの場合も同様で、枝と枝の間に棒を渡してリスの通り道を作り、その上にいくつかスネアをかけておく。運が良ければ、一晩の間に1本の棒に複数リスがかかっているという。
実際に「狼男」に教わった通り罠を仕掛け、翌日、ないし数日後に確認しに行くと、思っていたよりも高い確率で獲物がかかっていた。ジェラールはユーリタニアを離れるまでは、虫以外の生き物を自分で殺すということはしたことがなかった。そのためいたいけな生き物たちが罠にかかって死んでいる姿を見るのは辛かった。おまけにかかった獣や鳥がまだ死に切らず、微かに動いている場合は見るに堪えなかった。そんなときは「狼男」が止めを刺してくれた。
彼は手先が大変器用で、ジェラールとエリクのために、ウサギのなめし皮と腱の糸で小さな袋を作り、皮紐を通して巾着袋にした。さらに腰のベルトから吊り下げられるよう、鹿角の先端を紐に通して、ベルトに引っ掛けるための留め具にして手渡してくれた。
「狼男」の持ち物には殆ど金属は見当たらず、ナイフや斧の刃、矢尻はスレートやフリントでできた石器だった。火を起こすにもフリントはあっても火打ち金はなく、その辺の木の枝を使ってやっていた。比較的真っ直ぐな枝を2本用意し、一方を平らに削って地面に置き、もう一方を垂直に立てて擦り合わせ、それで出る黒い木屑を火種にする。どれも原始的だが意外に優れており、石器は皮を剥いだり肉を切ったりするのに十分な鋭さがあり、木の枝の摩擦で火を起こすのも、火打石を使った方法に比べて多少手間はかかるものの、そんなに難しくなさそうに見える。しかし、いざジェラールがそのやり方に挑戦してみても、「狼男」がやるように上手くはいかない。いくら枝を一生懸命擦っても、ちっとも煙も木屑も出てこないのだ。
「手のひら全体を使って、上から下へ思いっきり擦るんだ。お前のそのやり方じゃあ、全然回転が足りない」
「狼男」は呆れたようにため息をつき、付きっ切りでコツを教えてくれた。硬く丈夫そうな皮膚に覆われた「狼男」の手のひらに比べて、ジェラールの手はまるで赤子のように柔らかくひ弱だ。言われた通りに枝を擦ると、手のひらは細かい傷だらけになってヒリヒリした。そうするうちに、やがて下に置いている枝から煙と共に黒い木屑が出るようになった。
「鳥獣人」に扮するために、このエスニア人はわざわざ生活まで原始的にしているのだろうか。だがジェラールたちにはもうエスニア人だとばれているのだから、もっと現代的な道具を用いていても良いのではないか。
……やはりもしかして、本当に「鳥獣人」? ジェラールはそんな淡い期待が少しずつ頭をもたげつつあった。
「狼男」の世話になって3日後、ジェラールは「狼男」が留守にしているときエリクにそっと尋ねた。
「なあエリク、あの男、本当は何者だと思う?」
「……エスニア人、なんじゃないですか?」
エリクはあまり関心がなさそうに答えた。
「そうかなあ。私は最近それが揺らぎつつあるんだ」
「なんか、声がわくわくしてますね」
エリクが横目でジェラールを見た。ターコイズのような青い瞳である。
「だって、おかしいと思わないか? 『鳥獣人』を装ってるっていうけど、此処まで生活を原始的かつ器用にできるかい? もう私たちにはエスニア人だとばれてるのに、まだそれを貫こうとしてるなんて、ちょっと変だろう」
「……まあ確かに、一度も素顔を見せたこともないですしね」
エリクは深く頷く。
「だとしたら何ですか? やっぱりあの男は『鳥獣人』だと思われますか?」
「そこなんだよ、問題は。『鳥獣人』がエスニア語を話せるなんて、ちょっと信じられないんだ。あいつらは私たち人間を確認すれば、いつだって襲い掛かってきただろう。あんな相手に一体誰がエスニア語を教えられるっていうんだ」
と言った直後、ジェラールははっとした。彼は根本的な事を忘れていたのだ。自分はそんな相手に、神の教えを弘めようとしていたのではなかったのか。誰かがジェラールがやろうとしていたように「鳥獣人」と穏便に接触し、関係を築き、言葉を教えたのではないだろうか。そう考えれば、エスニア語が話せる「鳥獣人」がいてもおかしくはない。
しかし「狼男」はあくまで自分の素性を語りたがらなかった。それはいったい何故なのだろう。やはりその理由は毛皮の下にあるのかもしれない。久しぶりにジェラールの探究心に火が付き始めた。
日が傾いたころ、「狼男」は狩りから帰ってきた。今日の獲物は小型のシカだった。小型とはいえ、全長は人間よりやや小さいだけなので、とても一日で食べきれる量ではない。
「今日は久しぶりに大きな獲物が手に入った。小分けにして保存食をつくるから、お前たちも手伝え」
「狼男」に促されて、ジェラールたちはまず簡単な燻製小屋を作った。木の枝と樹皮で屋根を作り、その下に肉を干すための棚を作った。
燻製小屋が出来ると、3人でシカの解体作業にかかった。ジェラールは皮を剥いだり肉を切ったりするのを手伝い、まだ歩けないエリクは、切り分けられた肉を取り扱いやすいようさらに細かく切ったり、乾し棚に吊り下げやすいよう糸を括りつけ、軽く塩を振った。
肝臓や胃は、新鮮なうちに食べたほうが良いらしく、「狼男」は肝臓の一部を切ってそのまま生で食べた。血だらけの手で差し出してジェラールにも食べてみるよう勧めたが、病気になりそうな気がして彼は断った。腎臓、大腸といった他の臓器は焚き火の上に設置した平たい石に載せて炙り、十分火が通ったところで腹ごしらえにジェラールたちも食べた。独特の臭味や歯ごたえが慣れず素直に美味しいとは思えなかったが、空腹は紛らわせた。
干す準備が出来た肉を「狼男」が順次干していった。焚き火を起こし、肉が乾くまで、交代で肉をひっくり返す作業を行った。
ジェラールが「狼男」の本当の正体を探ろうと隙を伺っていると、すぐに手が止まってしまい、「狼男」にぼんやりするなと急かされた。
いつも以上に肉体労働したため、その夜ジェラールはぐったりして毛皮の寝具に横たわった。またあれだけ大型の動物の身体を切り裂くのも強烈な体験だった。ユーリタニアで博物学者をしていたときは、狩人から骨格標本を入手したり、職人に依頼してウサギや小鳥の剥製を作ってもらったりしていた程度だったから、自ら手を汚して動物を解体するというのは初めてだった。勿論、今日の体験を通してシカの身体がどういう構造をしていたかということは、身をもって学べたと思う。
彼は今日のことを振り返りながら、だんだん意識が遠のいていった。
殆ど夢も見ず深い眠りに落ちていたが、どういうわけかジェラールは夜も明けぬうちに目を覚ましてしまった。まだ夜の虫たちの合唱は続いている。
ひどく喉が渇いていたので、彼はテントを出て川へ向かう。
少し離れたところに、「狼男」が寝ていると思しきテントがあった。焚き火はまだ消えていない。
いまこそあの男の正体がわかるかもしれない! と思ったが、勝手に寝床を覗き込むのはやはりやってはいけないような気がする。
でも、あの男だって自分たちのことをずっと見ていたんだ! お互い様だ! とジェラールは自分に言い聞かせ、こっそりテントに近づいて出入口に垂れ下がっている布をどけた。
「あ、あれ……?」
「狼男」の姿はなかった。奥を覗いてみても誰もいない。
ジェラールは残念に思ったが、同時に自分が覗いていたことを「狼男」に悟られなくて良かったと、安堵する気持ちもあった。
満月の光が森を照らし、夜でも森の中は明るく感じた。森を歩き続けるとやがてせせらぎの音が聞こえ、木々の向こうに月明りを照り返してきらめく川が見えた。川岸に着き、しゃがんで両手で水をすくって飲んだ。喉の渇きを癒し、立ち上がって帰ろうとしたとき、向こうでバシャバシャ水が跳ね上がる音が聞こえた。
ジェラールがこっそり近づくと、誰かが水浴びをしているのが見えた。「誰か」というのは、川に浸っているのが人の形をしていたということだ。大雑把なシルエットしか確認できないが、かなり体格の良い人物であることは間違いない。
こんな夜更けに誰が水浴びしているのだろう、思ったと同時に、ひょっとしたら「狼男」なのではと思った。
ジェラールは近くのシラカバの陰に隠れ、様子を伺う。人影は下半身を川に浸していたが、しばらくして立ち上がった。その瞬間、ジェラールはぎょっとした。
お尻から、細長い尻尾のようなものが伸びていたのだ。上半身もよく見ると、肩から背中にかけて色の濃い剛毛で覆われているように見える。ジェラールには背中を向けており、月明かりの逆光で細かいところはよく見えないが、明らかにそれは「獣人」のようだった。
ジェラールは両手を口に当て、自分が此処にいることを相手に悟られまいとした。しかし……。
「ずっと見てたのか」
目の前にいた男が背を向けたまま言った。「狼男」の声である。ジェラールは胸が痛いくらい鼓動が激しくなるのを感じた。
「ちょっと向こう向いててくれないか。川から出られない」
「狼男」は右手で「あっちへいけ」というジェスチャーをする。ジェラールは我に返って、今自分が相手にとても失礼なことをしてしまったことに気付いた。彼は恥ずかしさのあまり何も言えず、無言で足早に野営地に戻っていった。
テントに入っても、ジェラールはよく眠れなかった。まだ疲れは残っているはずなのに、興奮と不安で寝付けなかった。
翌朝、ぼんやりする頭でテントを出ると、「狼男」がいつものように頭からオオカミの毛皮を被って焚き火の前に座っていた。「狼男」から少し距離を取って、ジェラールも腰を下ろす。
ちらりと「狼男」に目をやると、やはり仮面もつけていた。だがいつもより模様が少ない気がする。あ、口元にフェイスペイントがないからか。
服装もよく見ると上半身は完全に裸で、前腕から手の甲にかけて褐色の剛毛が生えているのがはっきりと確認できる。
これではっきりした。「狼男」はエスニア人ではなく、エスニア語を話せるオオカミ型の「獣人」だったのだ。ジェラールは念願の、「鳥獣人」との接触を果たせていたのだ。
だがそんな奇跡的な状態にもかかわらず、彼は喜べなかった。ばつが悪くて、「狼男」が何と言うのかびくびくしていた。
不意に「狼男」が息を吸い、口を開いた。
「……これで満足か?」
「………………」
「初めてまともに『鳥獣人』と意思疎通ができたと分かって、気が済んだか?」
「…………昨夜はすまなかったよ」
ジェラールは素直に謝るが、「狼男」はしばらく黙っていた。
「……お前たち移民は、おれたち先住民――ネネ・ピズのことを下等な種族のように思っているだろうが、おれたちだってまっとうな人間だ。お前に正体を明かせば、すぐに見下したような態度になるだろうと思って、隠し通そうと思ってたんだけどな」
そのまま互いに無言の状態がしばらく続いた。
「とにかく、先に顔洗って来いよ。おれは朝飯の支度をするからさ」
ジェラールへの気遣いなのか、それともこの重苦しい空気が嫌なのか、「狼男」は気持ちを切り替えるように腰を上げた。
ジェラールはとぼとぼと昨晩の川へ向かう。満月の光で照らされていた川は、今は雲一つない爽やかな朝の空を映している。
「おはようございます」
エリクの声が聞こえて下を向くと、エリクが川岸に腰を下ろしていた。
「エリク? もう歩けるのかい?」
ジェラールは今の気持ちを隠すように、明るく言った。
「ええ。まだ傷は痛みますが、『狼男』に支えてもらいながらだったら歩けますよ」
それを聞いてジェラールはまた気が重くなった。崩れるように座り込むと、エリクがぎょっとした。
「どうしましたか?」
「……聞いてくれ、エリク。私は昨夜、してはいけないことをした」
ジェラールは神に告白するような気持ちで訴えた。
「え? 何をされたのですか……?」
エリクは眉をひそめた。
「実は……『狼男』の正体を見てしまったんだ」
「ああ、『獣人』だったんですよね」
エリクがさらっと答えて、ジェラールは驚いた。
「ええ? なんで君が知ってるの?」
「貴方様がまだお目覚めになる前、テントから私が出てきたところで『狼男』がいつものように私の怪我の様子をみてくれたんですよ。でもそのとき、毛皮は被ってなくて仮面だけつけてたんです。耳が毛深く尖っていて、首筋と背中、手の甲が毛むくじゃらなのが丸出しだったんですよ。最初私は戸惑ったんですけどね、よく考えたら、ああロゼット様にはもうばれたんだなって思いました」
自分は月明かりでぼんやりと見えただけだったのに、エリクは朝日のもと至近距離で「狼男」の真の姿を見たというのが、正直羨ましかった。だが「獣人」であることがばれてもなお、仮面は外さないというのが奇妙だった。まるでタマネギのように、あの男の秘密は何層にも重なっているようだ。
川を離れるとき、ジェラールはエリクに肩を差し出し、支えながらゆっくりと野営地に戻った。
「狼男」は昨日作った干し肉を木の器に並べて用意していた。
昨日作った干し肉はうまく塩味が効いており、大変美味だった。
カハラディアに来てから常に不安や恐怖と隣り合わせで、特に此処数日はろくな食事も取れておらず、ジェラールは常に空腹だった。だから人生で最も美味しい食事だと思えた。
すると不意に目頭が熱くなってきた。ジェラールは指で必死に目頭を押さえたが、間に合わず大粒の涙がこぼれてきた。
「ど……どうされましたか……?」
エリクはジェラールが涙を流しているのに気づき、慌てた。
「『狼男』君、本当にすまなかったよ。君は私たちのために骨身を惜しまず面倒を見てくれているのに、私ときたら、君の正体ばかり気にしていて、君にとてもひどいことをしてしまった。恩知らずにも程があるね。本当に、申し訳なかった……」
涙で視界が歪んでいるが、「狼男」が手を止めてこちらを見ているのはわかった。
「……そんな、お前が泣くことはないだろう」
「狼男」は少し戸惑っているようだ。
「お前がおれのことを探りたくなるのは無理もないと思ってる。ネネ・ピズの間でも、おれは変な格好をしたおかしな奴だと思われてるから、移民のお前なら尚更だ」
一息ついてから、「狼男」は続けた。
「ただ、おれが何でこんな身なりをしているかについては、訊かないでもらえるか? お前が聞いてもよくわからないと思うし、おれのことが他の移民や先住民たちの耳に入るのも避けたいからな」
「それは……もちろん」
もう同じ過ちは犯すまい、とジェラールは何度も深く頷いた。
それから数日後、エリクの足の怪我は完全に回復した。抜糸をして、傷口に軟膏を塗って軽く包帯で覆ってくれた。
「悪いが、おれはお前たちとずっと一緒にいるわけにはいかない。何かあったら助けてやってもいいが、基本的には自分たちで全部やっていくんだ。おれが教えてやった狩りや採集のしかたで食べ物は探せ。くれぐれも食べかけの動物の死骸には近づくなよ」
「狼男」は、まるでわが子を一人旅に出す父親のように言った。
「ありがとう。とても世話になったよ。君も達者で」
ジェラールが礼を言うと、「狼男」は踵を返して茂みの中に姿を消した。